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狩野派 狩野古信 / Hisanobu Kano

屏風 梅.jpg狩野派(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。





狩野古信(かのうひさのぶ)

RIMG0219.JPG江戸時代中期の画家。木挽町狩野家五世。初名は庄三郎、号は栄川。如川周信の子。画法を父に学ぶ。享保13年父の後を継いで幕府の絵師となる。法印に叙せらる。

享保16年(1731)歿、36才。画風は観察に基づいた正確さと柔和さがあります。
古信は短命であったため作品はほとんど見られません。


また、古信の子、典信は14歳の時、将軍徳川吉宗にお目見えし、吉宗は幼い典信を特別扱いして可愛がったといいます。宝暦12年(1762年)33歳で法眼中務卿、翌年奥絵師を仰せつけられ、安永2年(1773年)には表御医師並となり、竹川町家は典信の代で初めて奥絵師となりました。

典信は絵を好んだ徳川家治の寵愛深く、子の惟信や中橋狩野家の永徳高信と共に日々傍らに仕えたといいます。安永6年(1777年)、通常新たな屋敷を拝領すればそれまでの土地は返却するのが習わしであった当時、従来の竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな土地を拝領しました。
以後、時代を遡って古信の曾祖父にあたる狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれるようになります。


屏風 トップ画像.jpg

はな.jpg当店では、この狩野古信作の六曲一双の屏風を、御結納や結婚披露宴等おめでたいお席でのご利用の際に座敷内に飾らせて頂いております。

多少の経年劣化、痛み等見受けられますが、中心の『松竹梅』を囲んだ鶴の親子の生き生きとした描写など、約300年前の作品とは思えないほどきらびやかで素晴らしい屏風です。
ぜひご覧になって下さい。